アーロン・ケネス・ウォード-アサートン卿(Lord)から祝辞をいただきました。


皆さま、本日はお招きいただきましてありがとうございます。日本ホメオパシー医学協会の創立10周年おめでとうございます。由井寅子博士が、ホメオパシーの分野において、国際的に素晴らしい仕事をされたことをお歓び申し上げます。(ここまではアサートン卿に日本語で祝辞を賜りました。) 皆さま、ホメオパシーの同僚である日本ホメオパシー医学協会のコングレスにお招きいただいたことを大変光栄に思います。私は、リバプールの北部に住んでおりますが、リバプールはビートルズで有名なだけでなく、ホメオパシーレメディーのPyrogenがドライスティール医師により、1875年に発見された町でもあるのです。ドライスティール医師の発見も、ホメオパシーの偉大な先輩、天才サミュエル・ハーネマンの存在なしにはあり得なかったでしょう。皆さんもご存じのようにハーネマン医師は、ドイツのマイセン(当時はサクソニー北部と呼ばれていました)で生まれました。サミュエル・ハーネマンは、1755年から1843年の間を生き、その間、世界でも最も有名な治療家の1人として活躍しました。この時代の医療は、瀉血、または水銀のような有毒な重金属を投与して患っている人を治そうとしていました。ハーネマンが、病気に苦しんでいる人に異なったアプローチ法を行うことができたのは、彼自身の観察を通してです。彼は最初にChina樹皮の作用を観察し、その症状がマラリアにいかに類似しているかに気づきました。 そしてさらなるリサーチを重ね、この物質によって引き起こされる症状にマッチするマラリアという重い疾患を、治療できることに気づきました。ハーネマンは、こう描写しています。「似たものにたいして似たもので戦え」。彼はこのようにも言いました。どの効果のある薬物もその疾患そのもののようなものを、人間の体に引き起こす。そしてその薬物の特徴が強ければ強いほど、その疾患はより特徴的で顕著で激しく現れる。私たちは自然を模写し、併発疾患としての慢性疾患を治すべきである。特にそれが慢性ならば、できるだけ類似的な形で慢性疾患を引き起こすことのできるレメディーで治すべきである。それが最も似ていることが好ましい。そのようにして、過去の疾患は治るであろう。「似たものにたいして似たもので戦え!」。ハーネマンが弛まず研究し続けた結果、体自身の治癒能力を助けることができるホメオパシーレメディーが広く受け入れられ展開していくのにはそれほど時間はかかりませんでした。短期間の間にホメオパシーはヨーロッパの多くの地域に広がり、最後に、ハーネマンのもとで学んだフレデリック・クイーン医師によって、イギリスにもたらされました。フレデリック・クイーン医師は、ドイツに渡りハーネマンのもとで勉強した最初の英国人ホメオパスであります。クイーン医師はホメオパシー治療を学んだ後、1832年にロンドンでホメオパシー治療を始めました。彼の医療はすぐに多くの患者をもち、ヨーロッパの多くの王室にも採用されました。1854年にロンドンではひどいコレラの流行があり、何千人もの人がこの流行病に倒れました。実際、ハーネマン医師がドイツに旅行したイギリス同僚にこの病気にどう対処したらよいのかアドバイスを求められていました。ハーネマンは、非常によい対処法を伝えることができました。これは英国政府の資料としても保管されているものですが、他の医師の方法により救われた人数よりも、ホメオパシーによって救われた人数の方が、多かったということです。ヨーロッパでのホメオパシーの歴史をかいつまんでお話ししましたのは、ホメオパシーを学んだ1人の英国医師が素晴らしい力を自分の祖国に持ってきたことを伝えたかったからです。

アーロン・ケネス・ウォード-アサートン卿(Lord)

発表者

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